誰とも話したくないある日の雑記

このブログが日の目を見るのはいつだろう。

明日か、
明後日か、
半年後か、
10年後か。

永遠に公開されない可能性も高い。

まあ、それでもいい。そのおかげで今私は自由な心地で言葉を紡ぐことができている。

今は11月30日の午後11時。金曜日のこの時間は一週間の中で一番気楽だ。

ちなみにTwitterの方は更新をやめてから24時間を超えた。
質問箱に至っては確認すらしていない。私にしては珍しいことだ。
なお、幸いにして、まだ誰にも心配はかけてないようである。

「何故更新しないのか。」
私は、もう一人の私に素朴な疑問を投げかける。

「さあね、お前には関係ないだろう」
もう一人の私は、私にこう返した。

私は何もごまかしているわけではない。今まさにこのブログを書いていることからも分かるように、文章を書く意欲は失われていないのに、Twitterをやろうという気持ちはシャボン玉のように突然消え失せてしまったのだ。

それは何故だろう。と、考えること十数秒、わりとすぐに答えが出た。
冒頭に書いたとおり、このブログは人に見せることを前提としていない。
しかしTwitterは書いてすぐ後悔する。もとい、公開する。
私は誰かに対して言葉を発することに疲れてきたのだろう。

そう言えば、私はもともとそういう人間であった。
何も喋らず考えず、一人でぼんやりしている時が一番落ち着く。

子供の頃の私は、とにかく他人の存在が嫌だった。
誰とも関わりたくなかった。
他人に話しかけること、見られること、何かを強制されること、人と一緒に何かをすること、それら全てが苦痛だった。

私は保育園に行った記憶があまりない。
確か、一年のうち半分近くを休んでいたように思う。
病弱だったわけではない。
端的に言えば、ずる休みである。

普通の人は、保育園は楽しい場所だったと記憶しているのだろうか?私は保育園で楽しい思いをしたことなんてほとんどない。

繰り返すが、私は人付き合いが嫌いだった。
さらに、創造性がまるでなく、手先も不器用なので、粘土遊びも、絵を描くのも、工作も苦手で、苦痛でしかなかった。
運動神経もないから、外で遊んでも他の子のように動けず、みじめな思いをするだけだった。

唯一好きだったのは、絵本を読むことだった。
当時私が最も好んで読んだ本は今でも覚えている。
「せいめいのれきし」という本だ。

せいめいのれきし 改訂版

せいめいのれきし 改訂版

小さい頃の私がこの本を愛したのは、生き物が織り成す激動の歴史の世界に没入し、人間世界から逃避できたからかもしれない。

さて、書いてるうちに眠たくなったのでここで終わる。
気が向いたらそれからの私のことをネタにまた書いてみよう。