砂漠への憧れ
休日の昼間にドライブをしていた時のこと。
たまたま聞いていた、とあるラジオの番組で、こんなお便りが紹介された。
「私は以前からサハラマラソンに参加してみたいと考えていました。今回を逃すともう参加することはできないかもしれない、どうしようかと迷っていたところ、妻と娘から『仕事を辞めてでもいいから参加しなさい!』と背中を押されたので、参加を決意しました。大変過酷なレースではありますが、理解をしてくれた家族のためにも頑張ります。」
うーむ、サハラマラソンねえ。
名前は何となく聞いたことあるが、砂漠を走るのって相当きついだろうなと思い、詳細が気になった私は家に帰ってネットで検索をしてみた。そしてたどり着いたのがこのホームページである。
いやいや、これ、きついとかそういうレベルではない。
普通の人が考えるマラソンの概念を逸脱している。
合計250kmを7日間かけて走り、その間の食料その他必要な物資は自ら背負い、途中遭難のおそれもある中、ただひたすら走り続けなければならない。
だいたい、準備物に「毒抽出用のスネークポンプ」とか書いてあるマラソン大会が、他にあるか?
こんなレースにエントリーするような人は、その時点で私とは比べものにならない強靱な肉体を持っているに違いない。それをまたさらに限界へと追い込もうとしているのである。
完全に私の想像できる範囲を超えている……。
そう胸の中で呟きつつも、私は、遥か遠い異国の、荒涼とした大地に誘われていくのを感じた。
「砂漠」
何故だろう。
そこは生命維持をもままならない極限の地であるはずなのに、厳かな、感傷的なイメージを抱く。
見上げれば高く青い空。いかに砂漠が荒涼としていても、この惑星は確かに豊潤であり、数多の命をその懐に抱いていることを物語る。
正面をみれば果てしない地平線。空と大地の繋がるさらにその先には、まだ見ぬ世界が存在し、あるいは天地創造の神髄へとたどり着ける。そう信じて、かつて人類はそこを目指し、歩き続けたのかもしれない。
するとにわかに風は砂を巻き上げ、大地の息吹きとなる。そしてそれは、生けるものに一切の温もりを与える義理もないのだと言わんばかりに無機質な絵画を描き、名もなきその地を駆け巡る。
足もとを見れば、何物かが描かれた砂の痕跡。風の仕業か、サソリがいたか、あるいは誰かがこの地を後にしたのか。いずれにしてもそれは、何もない砂漠において、時の流れを物語る数少ないものだ。
夜になれば星が輝く。
凍える夜に空を見上げ、人は何を思うだろう。
星のまたたきを目に焼き付け、瞳を閉じたその旅人の瞼の裏に描かれるのは、幻想的な神話だろうか、それとも、この大地に全ての運命を委ねた、明日の我が身か。
そんなことを考えていると、砂漠は、生命の本質を投影する舞台のように思えてくる。
この国は、私たちを取り巻く環境は、とかくやかましい。
起きたくもない時間に起き、本当に食べたいのか自分でも判らぬ食事を摂り、行きたくもない仕事場に行き、話したくないもない人と会話をし、知りたくもない新商品の広告が目に飛び込み、誰のために造られたのか分からない建物をすり抜け、本当に自分のために生きたか考える余裕もないまま一日が終わる。
そんな環境とは無縁の、何一つない世界の果て。
あるのは空気と大地だけ。
欲しいものは何も望めない。
自分がどこにいるのか分からない。
どこを目指せばいいかも分からない。
誰かに助けを求めることもできない。
そうなると、最早自分が何者かすらもどうでもよくなる。
自分はこの地球の、ほんの一欠片。それだけの存在なのだ。
胸に手を当て、自分の鼓動を感じ、今自分がここにいる証を確認する。
それだけでいい。理想だ何だと振りかざすこともなく、淡々と生きればよい。
確かにそこはいつ命尽きてもおかしくない地獄のような地かもしれない。でも、例え死んだとしても、砂に抱かれ砂に還るだけなのだと考えれば、きっと絶望もするまい。
もしかしたら、その砂漠を走り抜ける人々の動機は、自分の限界へと挑戦する、それだけではないのではないか。
何もない、誰も頼れない、そんな世界の中を体力の続く限り前へ向かってひたすら走る。
それを通じて、生きることの苦労と向き合い、人生の意味について自らに問うているのではないか。
そう私は思うのである。
まあ、繰り返すが、そうは言っても私は砂漠を走る勇気も体力もない。
今日も、明日も、安全で、極限状態とは無縁の住み慣れたこの街で、幸福な動物の真似をして生きていこう。
そう。
欲しいものがあるが手に入らない。
会いたくない人だが、できれば分かり会いたい。
生きるのは辛いが死ぬのも怖い。
どれも、砂漠には絶対に無い、幸福と不幸が表裏一体となったコインのようなもの。それを大切に握っていればいいんだ。スネークポンプは必要ない。
そして、時々、この街が砂漠にならないことを密かに願おう。